父の音色

父は尺八の大師範で、
その音色には定評があったようです。
軍隊時代も上官の尺八の先生として、
前線には行かされず、
おかげで命拾いしたという話を何度も聞きました。
父の母が病死したということを戦地で知らされた父は
2日間寝ないで、尺八を吹き続け、
それは軍隊仲間の伝説となったそうです。
中学3年生のときだったとおもいます。
父が吹く尺八の「秋の調べ」に心打たれて涙が止まらず、
ドアの前に座り込んで泣いた記憶があります。
生まれて初めて音楽での感動を父から教えてもらいました。
小学校3年生ぐらいに市民会館の杮落としに父が出ていて
(○○愛山)という名前でした。
私は客席を走り回って、転んで頭に怪我をし、
血を出して泣き、そのうえ母にも怒られ、
泣いていました(笑)
勿論父の演奏など聞いてもいません。
一度、ピアノと尺八でアンサンブルをしたことがありますが、
もう父の音は聞けません。
入れ歯になり、「もうだめだ」と父は吹いてくれません。
父に教えてもらい、音を出す程度ですが
吹けます。
ピアノとは使う筋肉が違いますが、
やはり大切なのは、筋肉です。
大学のとき、尺八を貰ったのですが、
乾燥で割ってしまいました。
何十万もする尺八なのに、父は怒らず、
「水に漬ければ吹ける」と言ってくれました。
今その割れた尺八はありませんが、
人間国宝の島原帆山氏が父のために選んでくれた
立派な尺八があります。
私が吹いてもよい音がしますよ。
楽器は人を選ばないけど、
使いこなすには、吹き手の(弾き手)
力が必要なのかもしれませんね。
父の音はもう聞けなくとも私の心にその音色が焼きつき、
私のピアノの音に確実に受け継がれていると思います。
音の美しさを皆さんに褒められることが多い私ですが
生徒達にも確実に受け継がれているのです。
私の音に対するレッスンはしつこいですからね(笑)
私の音の原点は、あの時の父の出した音を
再現しようとしているのかもしれません。

鬼の心

鬼とは私の母のことです。
とにかく小学校までは鬼でした。
子供心に、本当の子ではないと思っていましたから。
毎日、ピアノの前に表があり、○×△とチェックが入れられます。
母親は殆ど、隣につきっきりで、
上手く弾けないと、つねられたり、髪を引っ張られたりしました。
引っ張られるのが嫌で、小学校3年生のとき髪を切りましたが
子供の浅はかさ(笑)今度は毛をむしられ、前より痛かったです。
小学校2年生のとき、
今でもありありと思うことがあります。
ついに練習が嫌で反抗したら、
窓から捨てられました!
それも冬。
雪が窓のすぐ下まで積もっていて、
部屋着のまま雪の中に私は埋まってしまいました。
泣きながら雪の中から這い出して、
玄関の前で
「開けてー!!!開けてー!!!ちゃんとピアノ練習するから!」
と泣き叫んだのを覚えています。
恐怖と寒さでおしっこが足に垂れていく感覚は
今でも忘れることが出来ません。
やっと入れてもらい、許してもらいました。
そのとき、両親は
「お風呂沸かせ!そろそろ家に入れなくては風邪ひく!」
とパニックになっていたのを知ったのはずっと後のことでした。
それで、風邪をひき熱があるのに、
「ピアノを練習しなければ…」と私がうわごとのように
言っていたとき
母は涙が止まらなかったと、
私が大人になってから教えてくれました。
小学校6年生のときレッスンを続けて休んだのがきっかけで
私はピアノを止めてしまいました。
先生に対する反抗心もありました。
先生の人間性が嫌いでした。
母もお月謝も高かったし、
今まで私のために頑張ってきたので少し気が
緩んだのかもしれません。
何も言いませんでした・・・・・。
私は絶対ピアノは弾かないと心に決め、
ヴァイオリンを習い始めました。
幸い、中学でオーケストラクラブがあり、
コンサートも盛んでした。
でも、いくら練習しても始めたのが遅く、上手くいきません。
本当はどこかでやはりピアノのほうが良いと
私自身思っていたと思います。
あるとき私が家に帰ると、母の友人の子供(高校生ぐらい)が
私のピアノを弾いていました。
私は生まれて初めて他人を怒鳴り散らしました
「ワタシのピアノに触らないで!!」
きっとそのとき、母は私の心の奥にある叫びを
聞いてくれたのだと思います。
私が怒鳴ってしまったその人にこの場を借りて謝りたいです。
ずっと謝りたかったけど、誰かわからないので。
「ごめんなさい!お陰でピアノ続けています」
その後、学校から帰ると、「二階にいいものがあるよ」と言われ、
上がってみると、なんとグランドピアノG2がありました。
当時、大学生でもアップライトの時代。
勿論ピアノの先生でも、
グランドを持っている人は少なく、私の先生でもG3でした。
私は今までの決心何もかも忘れ、弾きつづけました。
後から、母に聞くと、「人生で大きな賭けだった」と言われました。
私は心うきうきで、「ピアノ頑張ってやります」宣言をしたのですが、
思いも寄らない母の言葉に愕然としました!
「前と同じ先生でなくてはいけない!」
リセットして新しい気持ちでやりたかったので、
私にとっては絶対に嫌なことでした。
母と父は琴と尺八の師範で(父は建築業です)
習い事というものはどういうことかよく知っていたのでした。
「心を曲げても真を曲げてはいけない」そう教えられ、
(その時意味わからるわけありません)
しぶしぶ一緒に前の先生にお願いに行きました。
案の定
「他の先生に行って、やっぱり私がいいからまた来たのね!」
などと、ぐちゃぐちゃ言われました。
悔しくて、絶対に上手になってやると心に決心しましたよ。
それから私の地獄の日々が始まったのですが、
その話は長くなるのでまた別の機会にします。
とにかく今考えてみると、
違う先生に行かなくてよかったのです。
私の人生において先生への汚点はありませんから。
それに、逃げないことが自分自身に誇りを持つようになりました。
今でも母には頭が上がりません。
今、私があるのは全て母のおかげなのです。
親って大事なのですね。
勿論、辞め方にも色々よりますが、私のまわりで、
先生を変えて、ピアノの道で成功した人は見たことがありません。
他の先生も同じことをおっしゃっています。
やはりピアノはただ上手になるという目的ではなく、
人間として、人の道として、
心を勉強する「お習いごと」なのです。
だからこそ母はそのことをきちんと知っていたのだと
今になって分かる私でした。
鬼親ではなく、魂親ですね。

私の理想

結局 休みの間 雑用に追われ遊べませんでした。
私のHPからくるメールに 
返信していて皆さんいろいろ悩んでいると感じました。
(返信不定期ですがメールくださいね)
悩むことは成長できるキャパを持っているということで
そのあとどう自分の方向性を持つかが大事です。
これから できるだけ 悩みのヒントになることを
書いていこうと思います。
先生生活**年以上、振り返ってみれば
良いことも悪いこともいっぱいです。
最近若い先生と会う機会が多く、ふと思うことがあります。
私もこんな時代があったのだ。
私自身いつもこれで良いのか不安でしたよ。
コンクールで結果が出たら間違っていないと喜んだり
出なければ、親子共々一緒に落ち込み、自信を無くしていました。
あるとき、演奏解釈の違い
(当時は強い音で速く弾けば1位になった時代)
私は、音色や音楽の変化を中心に弾かせていました。
でも、結果は見事落選。
(迫力がないといわれました。モーツアルトなのに)
そのとき、その親が
「先生の音楽が好きです。だからきっと先生の時代が来ます、
子供共々ついていきますから」
と言われたとき、嬉しかったです。(26歳の時)
その一言が今の私のパワーの源になっています。
とのとき、心に誓いましたね。
ちゃんと本物の先生にならなければ。
で、まず何をしたか。
先生であり、生徒であることをキープしようと、
色々な方々にレッスンを受けに行きました。
(私は45歳まで生徒でした)
お金もかかりましたよ。
海外の先生、海外で勉強してきた日本人の先輩、
色んな方にアドバイスしていただきました、
音を出さない音楽家、
作曲家、指揮者からの多くのアドバイス!
これはとても貴重でした。
失敗をしたからこそ今の私があるのです。
生徒の親からも、
生徒からも成長する機会を私たちはもらっているのです。
もし嫌なことがあっても、それは良くなるために
与えられた試練と思って下さい。
どのように思うかは 自由なのです。
(若いうちはなかなかそう思えないけど)
もちろんその生徒は、2年後1位になりました
どうも私の生徒は
私の音楽が好きでついているみたいです(笑)
でもいろいろな先生のレッスンを受けてみると
本当に、いろいろの解釈があります。
どれが正しいのか?わからなくなることもあります。
ですから私の思う理想のピアノ教師とは、
多くの先生方から、あるいは演奏家から、色々な要求をされたとき、
すぐ、そのように弾ける(理解できて弾ける)
ことができる生徒を育てることだと思います。
それで黒河メソッドが何十年かけてできたわけです。
メソッドの基本はどうすればそのように弾けるか
なのです。